近年、生物多様性の危機は環境問題の枠を超え、国家安全保障や経済安定に関わる課題として議論され始めている。食料、水資源、感染症、エネルギーなど、多くの分野が自然環境に依存しているためである。2026年に入ってからも、英国政府や国際機関が、生態系の劣化を安全保障リスクとして分析する報告を相次いで公表した。本記事では、生物多様性の危機と安全保障との関係を整理する。
目次
自然の劣化は国家安全保障リスクになりつつある
2026年1月、英国政府は「Nature Security Assessment(自然安全保障評価)」を公表し、世界的な生物多様性の損失や生態系崩壊が英国の安全保障と繁栄に与える影響を分析した。この報告では、自然の劣化が食料供給、水資源、感染症、経済活動、社会の安定など多くの分野に影響を及ぼす可能性があると指摘されている。さらに、英国経済や国際サプライチェーンが海外の自然資源に大きく依存していることから、国外で起きる生態系の変化も英国の安全保障や経済に影響を及ぼす可能性があると分析している。自然環境の問題は、もはや環境政策だけの領域ではなく、国家の安定や経済の持続性を左右する問題として議論され始めているのである。*1
英国政府の評価では、生態系の劣化は複数のリスクを連鎖的に引き起こす可能性があると指摘されている。たとえば森林破壊や土地劣化は農業生産を低下させ、食料価格の上昇や社会不安を引き起こす可能性がある。また、水資源の不足は農業や工業生産を圧迫するだけでなく、国家間の資源競争や地域紛争の原因にもなり得るとされている。さらに、生物多様性の損失は感染症リスクの拡大とも関係すると考えられている。森林破壊や野生動物の生息域の縮小によって、人間と野生生物の接触が増え、新たな感染症が発生する可能性が高まるという指摘である。
欧州連合(EU)も同様の問題意識を示している。2026年に欧州委員会が公表した報告では、生物多様性は食料生産、水資源の管理、経済活動など多くの分野を支える基盤であり、その劣化は社会や経済の安定に影響を与える可能性があると指摘された。また、自然資本への投資は経済の回復力(レジリエンス)を高め、長期的な繁栄と安全保障を支えるものだと位置付けられている。*2
このように、生物多様性の損失は単なる環境問題ではなく、食料安全保障、水資源、健康リスク、紛争リスクなどを通じて国家の安定に影響する複合的なリスクとして認識され始めている。
長期的には世界経済にとって最大のリスクとされる環境問題
国際的なリスク分析でも、生物多様性の危機は依然として最も深刻な長期リスクの一つとされている。世界経済フォーラム(WEF)が2026年に公表した「グローバルリスク報告」では、今後10年の世界を左右するリスクとして、極端気象、生物多様性の損失、地球システムの重大な変化などの環境リスクが上位に位置付けられている。これらのリスクは単独で発生するのではなく、経済危機、社会不安、政治的不安定などと相互に影響し合う可能性があると分析されている。しかし短期の政治議論では状況が異なる。2020年代後半の国際政治では国家間戦争や地政学的対立、経済ブロック化などが強く意識され、環境問題は相対的に後景に退きやすい。*3(詳しくは、「グローバルリスクレポート2026が描く今後10年のリスク地図」をご覧ください)
実際、2026年のミュンヘン安全保障会議をめぐる分析では、安全保障議論の中心は依然として軍事安全保障や地政学的対立であり、気候変動や自然環境の問題は相対的に扱いが小さいと指摘されている。ロシアのウクライナ侵攻の長期化や中東情勢の緊張、米中関係などの問題が議論の大部分を占める中で、気候変動や環境リスクは安全保障議題の周辺に置かれがちであると分析されている。Chatham Houseの分析では、こうした状況は短期的な政治課題が優先される国際政治の構造を反映していると指摘されている。会議では国家間紛争、軍事同盟、エネルギー供給などの問題が中心議題となり、長期的なリスクである気候変動や生態系の劣化は議論の優先順位が下がりやすいとされる。しかし研究者や政策専門家の中には、この傾向が将来の安全保障リスクを見誤る可能性があるとの懸念も示されている。*4
食料不足・社会不安・紛争リスクとの関係
特に、干ばつや洪水、土地劣化などの環境変化は食料不足や資源競争を引き起こし、社会不安や紛争のリスクを高める可能性があると指摘されている。中東やアフリカなどでは、水資源や農業生産への影響が政治的不安定と結びつく可能性も議論されている。こうした観点から、気候変動や自然環境の問題は単なる環境政策ではなく、安全保障政策の重要な要素として扱うべきだと主張する専門家も多い。このため一部の研究者は、現在の安全保障議論では軍事や地政学的対立が中心となり、気候変動や生物多様性の危機がもたらす長期的な不安定化の要因が十分に議論されていない可能性があると指摘している。気候や自然環境の問題を安全保障の枠組みの中でどのように位置付けるかは、今後の国際政策において重要な課題の一つとなっている。
つまり現在の国際政治では、環境リスクは長期的には最大級の脅威と認識されながらも、短期の政治課題の中では見えにくい存在になっていると言える。
各国政府が進める環境政策の変化
こうした状況の中で、各国政府は生物多様性政策を安全保障や経済政策と結びつける動きを強めている。EUは2026年に、生物多様性政策の進捗に関する報告を公表し、自然の保全は食料、水、経済活動を支える基盤であり、社会のレジリエンスを高める重要な政策分野であると指摘した。EUは2030年までに生物多様性を回復させる政策目標を掲げているが、その達成にはより迅速な行動が必要であるとも述べている。また報告では、生物多様性への投資は環境政策にとどまらず、社会や経済の安定、さらには安全保障を支える基盤として重要であると位置付けられている。*2
さらにEUでは、自然環境の回復を法制度として進める取り組みも進んでいる。2024年に採択された「Nature Restoration Law(自然再生法)」は、2030年までにEU域内の劣化した生態系の回復を進めることを目的としたものであり、森林、農地、河川、海洋など幅広い生態系を対象としている。自然の回復を法的義務として位置付けたこの政策は、環境政策だけでなく食料安全保障や水資源管理とも密接に関係する取り組みとして注目されている。*11
オーストラリア政府も、海洋生態系の保全に関する国際的な枠組みへの参加を進めている。2026年、同国政府は国家管轄外の海洋生物多様性を保護する「公海条約(High Seas Treaty)」の批准に向けた国内手続きを進める方針を発表した。この条約は、公海における海洋資源の保全や持続的利用を目的とした国際協定であり、海洋保護区の設定や海洋資源の管理、科学調査の強化などを通じて、海洋生態系の劣化を防ぐことを目指している。*5
日本でも、生物多様性政策は国家戦略として位置付けられている。日本政府は2023年に「生物多様性国家戦略2023–2030」を策定し、2030年までに自然の損失を止めて回復に向かわせる「ネイチャーポジティブ」を国家目標として掲げた。また日本は「30by30」目標として、2030年までに国土と海域の30%を保全する方針を示している。企業や自治体が管理する自然環境を「自然共生サイト」として認定する制度も進められている。さらに、日本では企業による自然関連情報開示の取り組みも進んでいる。自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)は企業が自然への依存や影響を開示する枠組みを提示しており、日本企業はこの取り組みへの参加が比較的多いとされている。*9、10、12
このようにEU、オーストラリア、日本など各国政府は、生物多様性政策を従来の自然保護政策としてではなく、食料、資源、経済活動の安定を支える政策として位置付け始めている。
まとめ
本記事では、生物多様性の危機が環境問題の枠を超え、安全保障や経済政策と結びつくテーマとして議論され始めている状況を整理した。英国政府の分析では、生態系の劣化が食料、水資源、感染症、社会不安などと連鎖し、国家の安定に影響を与える可能性が指摘されている。また、世界経済フォーラムのリスク分析では、生物多様性の損失は依然として長期的な世界リスクの上位に位置付けられている。一方で、現実の政策議論では地政学的対立や軍事安全保障が優先され、自然環境の問題は十分に議論されていないという指摘もある。
それでもEU、日本、オーストラリアなど各国政府は、生物多様性政策を食料や資源、経済活動の安定を支える政策として位置付け始めている。自然環境の保全は、環境政策の枠を超え、国家のレジリエンスや経済の持続性に関わる重要な政策課題として認識されつつある。
こうした変化は、企業や金融の分野にも広がっている。森林破壊、水資源の枯渇、土壌劣化などの自然環境の変化は、農業や食品産業をはじめとするサプライチェーンに影響を与えており、経済活動そのものを不安定化させるリスクを伴うためである。従って、生物多様性の問題が環境課題にとどまらず、企業の財務リスクや投資判断に関わるテーマとして認識され始めていることを示している。
このように、生物多様性の危機は環境、経済、安全保障が交差する複合的な問題となりつつある。今後のESGを考えるうえでは、自然環境と安全保障の関係をどのように捉えるかが、ますます重要になると考えられる。
*3 World Economic Forum、Global Risks Report 2026
*4 Chatham House、Climate security should be a bigger priority at the Munich Security Conference
*5 Australian Government、Australia one step closer to ratifying landmark High Seas Biodiversity Treaty
*6 Reuters、Global oil and gas prices soar as Iran crisis disrupts shipping, production
*7 A&O Shearman、The GCC energy transition 2026
*8 Reuters、Companies told to protect nature now or face extinction themselves
*10 環境省、30by30ロードマップ
